道路の日本史 古代駅路から高速道路へ


『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』
大規模な道路網を持つ最初の古代国家は、道の歴史のバイブルともいうべきヘルマン・シュライバーの『道の文化史』によれば、「王の道」を持つ古代のアケメネス朝ペルシャ帝国である。
古代中国の高速道路網であった馳道は幅70m。中央部の三丈(約7m)は皇帝専用であり、皇帝の命じた使者たちですら、その部分を通ることを許されず、外側の側道部分を通れるだけだった。
ローマの道はきわめて利用価値の高い資材で造られていた。後世の農夫はかつての道路から石をはずして、家畜小屋や家を増築し、あるいは農事小屋を造ったりした。
日本では、古代の律令制国家が造った七道駅路以来、騎馬が直線的に疾駆できる道は、およそ1000年後の20世紀に自動車が輸入されるまで、絶えて造られることはなかった。
奈良時代の全遺跡に占める交通遺跡の割合は、他の時代と比較して高い。これらのことは、古代の道の多くがある時期以降に廃絶して道路としてほとんど全く使用されなくなったことを意味している。
熊野は中世期には日本最大の霊場となったが、近世になると伊勢神宮がそれに代わるようになる。
中世と近世の道路遺構がそれぞれ古代の10分の1程度しか発見されないのは、これらの時代の道が廃絶して、全く関係のない農地や宅地の下になっていることが少なく、現在でも道路に使われているので、新たな開発計画によって発掘調査が行われるような機会がほとんどないからである。
大正時代の全国の道路の実情はあまりに劣悪で、函館の目抜き通りで「馬が一匹埋まってしまったが幸に首が出ていた為、引揚げて半死半生で助かった」など、現代の人間にはほとんど信じがたい。
大正時代に定められた「道路構造令」において、はじめて自動車交通が基準として考慮されるが、なお馬車・荷車などの利用が圧倒的に多く、この時点では曲線半径や縦断勾配も馬車の回転半径や登坂能力を基準に定められた。
道路構造に関する基準から完全に馬車交通が消えたのは、太平洋戦争後のことである。
『道路の日本史』第5章、近代の章を読んだ。1940年頃の道路計画では中国道はなく山陰道を通っている。 pic.twitter.com/u3xu13ZrPF
— ヤルキナス無無蝉 σφσ (@altocicada) 2016年6月27日
「道路の日本史 古代駅路から高速道路へ」武部健一 読了。この本はすごい! 感動的ですらある。高度成長期に現役技術者だった筆者が、長命し平成の国土政策を睨んでくれること、決して技術に寄ることなく、社会的側面から、時にマニアックなくらい一次史料にこだわって道の歴史を論じてくれること。
— yehoy (@ktorachief) 2015, 11月 19
年始に「道路の日本史」読了。道路公団出身の著者が、高速道路建設時によく駅伝制の遺跡にぶつかるという疑問から、古代律令制時代は現代のように直線的に街道を設計していたことを資料を紐解き解説するのは見事。 pic.twitter.com/xzs4sbwPUX
— sato atsushi(Qtaro) (@sato_atsushi) 2016, 1月 25
日本の道路史みたいなの読んだら、江戸時代の街道の整備、そこの土地の人たちの負担にし続けた事が、幕府が崩れた原因のひとつ、みたいな事かかれており。その場の人の善意に乗っかる式なのは昔っからなんだなあとどんよりする。(労働の対価をちゃんとしないと滅びるのは今も昔も変わりませんね)
— kure.B (@kurebonbon) 2015, 12月 19
今日の「のりものニュース」に高速道路の廃道ということで、名神の今須カーブの話も出ていたが、その辺の経緯はこんな感じで。
— 骨まで大洋ファン@レジェンド松原タオル買 (@FanTaiyo) 2017年9月16日
武部氏は、「道路の日本史」等を執筆した元・日本道路公団幹部の武部健一氏。 pic.twitter.com/6du8PweojH

『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』
武部健一
中公新書
中央公論新社
武部健一『道路の日本史』(中公新書)を読む。著者は御年90歳!もともと高速道路の技術者。高度成長期に整備が進んだ高速道路だが、なんと当事者も知らないまま、古代の駅路をなぞっていた!そこから交通史の分野に深入りしていった著者のエピソード中心の語りが魅力的な、工学的教養を感じる良書。
— NOMA Takeshi (@notabene1976) 2015, 10月 12
電子書籍版もあります